パリ点描:学生の街、カルチエ・ラタン

Sletches of Paris 2017: Quartier Latin, town of students
2017年の旅で、日本・フランス往復の途中、パリに行き帰り合わせて、数日泊まりました。
以下は、その時の風景です。

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今回のパリの宿は、Young & Happy Hostel という相部屋の宿です。ムフタール街にあります。学生の街として有名な、カルチエ・ラタンの一角にあります。
パリに着いて最初の夜、ホステルの受付嬢に、お勧めのレストラン、勿論、それほど高くないという注釈を付けて、を紹介して貰いました。近くの、ラ・モンターニュというところを勧められました。身振りからすると、とても素晴らしいというところのようです。楽しみです。

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La Montagne Sans Genevieve, 13 rue du Pot de Fer
しかし、ここは、レストランではなく、バーのようでした。食べられるものは、ハムの類のツマミ程度です。腹の足しになるようにと、量が多いのを期待して、一番高いものを頼みました。

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出てきたのが、これです。12ユーロ位だったと記憶しています。メモには、ワイン他を合わせて、21ユーロと書いてあります。
後で、喉が渇きそうですが、頑張って、全部食べました。

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私は寒いのが苦手なので、室内で食べましたが、表通りは、このラ・モンテーニュという店も、向かいの店も、学生かどうかは確かではありませんが、若い人でいっぱいでした。皆さん、話がはずんで、雀の巣のようなかしましさです。
ラ・モンターニュは、ビールが売りらしく、カウンターを見ていると、ビールがどんどん売れていました。他の人たちは、食べずに、飲んでいるだけです。
この写真を左に行けば、すぐに、ムフタール街に出ます。
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パリ点描:パンテオン

Pantheon, Paris 2017
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ヴァレット街rue Valette から眺めたパンテオン。
パリで泊まっているホステルの近くに、パンテオンがあります。昔、1980年代初めに、一度訪れたことがあります。大きな建物だったという記憶しかありません。近くなので、訪問してみました。

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パンテオン内部中央で、ゆっくり揺れる振り子を見る人々。
Wikipediaによれば、「パンテオン (仏 Panthéon:Panthéon de Paris) はフランスのパリの5区、聖ジュヌヴィエーヴの丘に位置し、幅110メートル、奥行き84メートルのギリシア十字の平面に、大ドームとコリント式の円柱を持つ新古典主義建築・・・。18世紀後半に、サント=ジュヌヴィエーヴ教会として建設され、後にフランスの偉人たちを祀る霊廟となった」とのことです。

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同上。

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おそらく、この写真は、パリの守護聖人、聖女ジュヌヴィエーヴの生涯を描いた連作。シャヴァンヌ作のもの。
聖女ジュヌヴィエーヴは、ナンテールの若い修道女。451年、フン族の王、アッチラ大王が、70万の兵を率いて、ライン川を渡り進入してきた時、パリの人々は恐れおののいて、逃げ出し始めました。その際、聖女ジュヌヴィエーヴは、天の加護によって、パリは救われると説いて、人びとを鎮めました。512年没。(この部分、ミシュランのガイド「パリ」を参照しました。)

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これも、その一部か?

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奥の台座に、「国民公会に」と書いてあります。
周りの人たちから判断して、フランス革命の際、1792年~95年に開かれた国民公会の記念でしょう。

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国民公会の右側の細部。

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主な人たちを挙げれば、次のような人たちが、ここに埋葬されているそうです。
マリ・キュリー
ピエール・キュリー
アレクサンドル・デュマ・ペール(「岩窟王」「三銃士」の作者)
ヴィクトル・ユーゴー
ジャン・ジョレス(社会主義者)
アンドレ・マルロー
ジャン・モネ(実業家・政治家。欧州統合の父のひとり)
ジャン・ムーラン(第二次大戦中、レジスタンス運動の指導者)
ジャン=ジャック・ルソー
ヴォルテール
エミール・ゾラ
アンリ・ベルクソン

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「ジャンヌ・ダルクの物語」より、神の啓示を受ける、ジャンヌ・ダルク。
ジャンヌ・ダルクに神の啓示を与えたのが、大天使ミカエル(モン・サン・ミシェルのサン・ミシェル)ということになっています。ジャンヌの後ろに描かれているのは、ミカエル(ミシェル)でしょう。

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「ジャンヌ・ダルクの物語」より、ルーアンで火あぶりの刑となるジャンヌ・ダルク。

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地下納骨所(クリプト)があって、そこに上述したフランスの偉人たちの墓碑があったようです。入り口が分からなかったのか、閉まっていたのか、訪れずに出てきてしまいました。
今、これを描きながら、その入り口を示したガイドブックを見て、残念至極に思っています。

パリ点描:モンテーニュの靴

Shoe of Montaigne, Paris 2017

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カルチエ・ラタンの中心、パリ・ソルボンヌ大学の正面に面して、学校街rue des Ecoles という通りが走っています。その通りを隔てた向かいに、ポール・パンルヴェ広場Square et Place Paul Painleveという小さな公園があります。その学校街沿いに、モンテーニュの像があります。
モンテーニュの「エセー(随想録)」や「旅日記」を読むのが好きなので、尋ねてみました。
(上の地図で、赤い印が公園の北側にありますが、実際の銅像は、南側、エコール通りにあります。私の記事では、エコール通りを学校街としてあります。)

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通る人に微笑をふりまくように腰かけていました。
履いている靴を良く見ると、女性のハイヒールのような靴です。当時のこのクラスの人たちが履いていた一般的な靴でしょうか?
組んだ脚の右の靴の先がピカピカに光っています。観光地の銅像で、それを撫でれば、頭が良くなるとかいうのがありますが、これもそのひとつでしょう。

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銅像を見ていると、ふたりの女性が通りかかりました。光っている靴を見て、
「撫でていこうかしら、ちょっと恥ずかしいわ」
と言う感じで、何か話しながら、立ち止まって見ていましたが、結局、二人とも、靴を撫でてゆきました。
どういうご利益があるのか、尋ねるのを忘れてしまいました。

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台座の下には、モンテーニュの「エセー」からとった、次の文章が刻まれています。
「子供のころから、パリは私の心をとらえた。すべての分野にわたって、偉大で、比べるもののないほど、変化に富んだ、この都市があるからこそ、私はフランス人でいられるのである。この都は、フランスの栄光であるとともに、世界のもっとも気品のある装飾品でもある。」(「パリの街角」佐藤昌著、三修社より)
私はフランス人ではありませんが、全くその通りだと思います。

パリ点描:続 モンテーニュの靴

Shoe of Montaigne Part 2, Paris 2017

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前々回に「モンテーニュの靴」を紹介しました。
銅像のモンテーニュが履いている靴が、何故、光っているのか、疑問を残したままでした。それを解くサイトがあるのを、フランスの友人から教えてもらいました。「Un jour de plus a Paris」というサイトです。「パリ観光の寄り道」といったところを紹介しているサイトです。それによれば、次の事情によるものです。

「ソルボンヌ大学(5区)の入口の前、中世博物館(注:クリュニー博物館のこと)に接した、ポール・パンルヴェという小さな公園に、ミシェル・ド・モンテーニュの坐像があります。試験の前に、ソルボンヌ大学の学生が、「サリュー(英語のハーイ)・モンテーニュ」と叫んで、このフランスの哲学者のクツに触るのを常としていました。習慣が、伝統となり、ついには、信念となりました。今では、モンテーニュのクツは、学生に、成功と幸運をもたらすと言われています。
もともと、この像は、白い大理石で造られていましたが、この伝統のために、汚(よご)れてしまいました。そのため、1989年に、新しいものに造りかえられました。しかし、この右足は、今でも、パリで最も撫でられるものとなっています。クツの色が、黄色く光っています。」

パリ大学に留学しようと考えている学生さんは、このブログ記事必読です。

ヘミングウェイのパリの青春時代 

The youth of Hemingway in Paris

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コントルスカルプ広場で、シャボン玉で遊ぶ若者。

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私の泊まっているホステルは、ムフタール通り80番地にあります。その北のはずれが、コントルスカルプ広場 Place de la Contrescarpeです。その広場から、カルディナル・ルモワンヌという通りが出ています。その通りに入って、2,3軒目のアパルトマンにヘミングウェイ(1899-1961)が若い時に住んでいたそうです。
尋ねてみました。

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その通りの74番地です。すぐに見つかりました。

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このアパルトマンの3階に、彼の妻と、1922年1月から1923年8月まで住んでいたと書いてあります。彼が、24歳頃のことです。

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このアパルトマンの3階とあります。日本式の4階になります。あの黄色い日よけを付けた窓です。
彼の「移動祝祭日」には、「二部屋つづきで、お湯は出ないし、防腐剤をほどこした容器を除き、室内には何のトイレ設備もなかったが、ミシガンの外の便所に慣れている者にとっては、不便ではなかった。眺めは良いし、マットレスは上々、床の上のベッドはバネも快適、壁には、お気に入りの絵がかかり、気持ちのよい陽気なアパートだった。」(「パリの街角」佐藤昌著、三修社)と書かれています。

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コントルスカルプ広場のカフェ。
更に、アパルトマンの説明版には、次の、ヘミングウェイの言葉が書かれていました。
「僕らの青春時代のパリ、そこで、僕らは、とても貧しく、そして、とても幸せな時を過ごした。」

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コントルスカルプ広場のカフェ・レストラン。プロだと感じさせる服装のボーイさん。
(ボーイとかギャルソンとかは、差別用語で使われなくなった?ギャルソンはムッシューに変っています。)