カルチエ・ラタンの甘い葡萄 その2

Au doux raisin of Cartier Latin, part 2, Paris 2017

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ワイン・バー「甘い葡萄」で、また、客は私一人になりました。

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歓迎会のグループの一行が帰った後、場所がふさがっていたところが空いたので、その壁の写真を撮りにゆきました。

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私の他に、誰も客がいないので、ワイン・バーの主(あるじ)が私のところに時々来て来ては、いろいろ説明してくれます。しかし、残念ながら、フランス語をよく理解できません。
本人の肖像画の横で。

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この肖像画は、私の知らない人です。誰ですか?と、主に尋ねると、私の手帖に、AUDIARD と書いてくれました。この絵を手に入れたいきさつを、楽しそうに説明してくれたのですが、よく分かりませんでした。
今、Wikipedia で調べると、ミシェル・オディアール Michel Audiard(1920-1985) は、フランスの脚本家です。「冬の猿」や、下の写真の「Les Tontons Flingueeurs」の脚本を書いています。

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映画「Les Tontons Flingueurs」(1963)。
私は、この映画も見ていません。インターネットで、日本語の題名を探しましたが、見つかりません。日本未公開でしょうか?
写真左から、
リノ・ヴァンチュラ(1919-1982)
フランシス・ブランシュ(1921-1974)
ロベール・ダルバン(1903-1987)
ベルナール・ブリエ(1916-1989)
ジャン・ルフェ―ブル(1919-2004)

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ジャン・ギャバン。

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今このブログを作りながら、店のサイトを見ると、次のような、案内がありました。今更ながら、良い店を見つけたと思います。
「ワイン・バー。
パリ5区の中心、あの有名なムフタール街から、何歩か歩くだけのところにある、甘い葡萄が本物の雰囲気を醸すワイン・バー。
ジャン・ギャバンのポスターやオーディアールの映画のシーンが、フランス文化を伝える。
オーディアールの愛好家よ、そのバーがここにある。」
BAR À VIN - Au cœur du 5ème, à deux pas de la célèbre rue Mouffetard, Aux Doux Raisins vous réserve une ambiance authentique de bar à vins. La culture française est à l’honneur avec des affiches où apparaissent Gabin, Brassens ou des scènes de films du scénariste Audiard.
Les amateurs d’Audiard, ONT TROUVÉ LEUR BAR (From the site of the wine bar)

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アンドレ・ブールヴィル(1917-1970)とジャン・ギャバン。

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ルイ・ド・フュネス(1914-1983)。
映画「大追跡」や「大進撃」、「ファントマ」シリーズなどで、楽しませてもらいました。

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ルイ・ド・フュネスの「大進撃」(1966)

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ジャン・ギャバンや、リノ・ヴァンチュラと一緒に、ワインを飲んでいるような気になりました。この世を忘れて、別世界に引き込まれた時間を過ごしました。
最後は、コーヒーでしめて、リキュールを、サービスで、ご馳走になりました。
「冬の猿」の映画を見てから、また訪問したいと思っています。
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カルチエ・ラタンの甘い葡萄 その1

Au doux raisin in Quartier Latin, part 1, Paris 2017

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私の泊まっているムフタール街の北側の続きに、デカルト街 rue DeDescartes があります。その29番地に、「甘い葡萄」Au doux raisin, 29 rue Descartes と言う名前のバーというか、レストランというか、そんな感じの店がありました。とりあえず、ワイン・バーとしておきます。
内側から、ジャン・ギャバンなどの写真が表を覗いていて、なにか気になります。(左側の窓ガラスをよく見ると、男三人が内側に座って、こちらを見ています。)
ある昼過ぎ、入ってみました。

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予想していた通り、中の壁は、フランス映画関連の写真とアルコールのポスターで、びっしり埋められていました。

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圧倒的に、ジャン・ギャバンが多い。

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「冬の猿」(1962年)のギャバン(1904-1976)とジャン・ポール・ベルモンド(1933-)。監督は、「ヘッドライト」、「地下室のメロディー」のアンリ・ヴェルヌイユ。

このワイン・バーの名前は、「甘い葡萄」です。バーのサイトに、「甘い葡萄は、冬の猿と呼ぶことが出来る。」(詳細下記)と書いてあります。この映画とバーの名前は、なにか関係がありそうです。
「冬の猿」は、日本では、ギャバン没後20年を記念して、1996年に劇場公開された映画だそうです。私は、この映画「冬の猿」を見ていません。そのため、インターネットで、いろいろ調べてみましたが、それ以上のことは分かりませんでした。
Venez dîner en compagnie de Gabin de Lino et sa bande de Tontons Flingueurs. Le Doux raisin aurait pu s’appeler "un singe en hiver". Il est un lieu plein de poésie qui a su éviter de tomber dans les clichés de ce quartier du 5ème.

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「シシリアン」(1969年)のアラン・ドロン(1935-)、ギャバン、リノ・ヴァンチュラ(1919-1987)。
この写真は、酒を手にしていない?!

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リキュールとディジェスティフの価格表。黒板に書いてあるのが、いい。

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客は、私ひとりです。
店内の飾り付けが面白くて、キョロキョロ見回していたら、店の主(あるじ)が、注文を取りにきました。お腹は空いていないので、種類は忘れましたが、赤ワイン、グラス一杯と・・・

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つまみに、13ユーロのアントレの中から、ハム Jambon を頼みました。

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こんなところなら、ひとりで、いつまでも飲んでいられます。(最近は、節酒を心がけ、量は飲まなくなりました。)

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と、そこへ、男女7名のグループが、ガヤガヤと、店に入って来ました。
どういう関係の人たちか、観察していました。
写真、真ん中の一番背の高い男性と皆さん、抱き合ったり、頬にキスをしたりしています。お互い、懐かしがっているのが、普通ではありません。真ん中の男性が、遠いところに赴任して、それが長い期間を経て、帰って来たのだろうという結論に達しました。年齢・服装などから、判断して、同じ職場の仲間であろうと思います。
日本人と身体の接し方の密着度が違います。

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そのうち、みんな立ち去り、最後に残ったふたりが、また抱き合っていました。恋人と言う感じではありません。

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そして、今までいたグループ全員が引き上げ、また、私一人になりました。
写真は、私が座ったテーブルのある片隅。

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そこに置かれたブタの置物。

つづく

パリ散策:スタンダールの死んだ場所

The place where Stendhal was dead, Paris 2017

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パリのリュクサンブール公園にあるスタンダールのレリーフ記念碑。
このレリーフは、ロダン作です。

高校2年の時に、スタンダールの「赤と黒」を初めて読みました。それ以来、スタンダールのファンになりました。今でも、一番好きな作家です。「赤と黒」、「パルムの僧院」、「カストロの尼」、「チェンチ一族」などは、ときどき、本を取り出しては、読み返しています。また、のんびり歩くヨーロッパの旅にも、たびたび、どれかを持参しています。

新潮文庫の「赤と黒」にあるスタンダール年譜によれば、スタンダールの最後の日は、
「1842年3月22日朝、"修道女スコラスティカ"を口述(スタンダールの最後の作品・・・)、
同日午後7時、ヌ―ヴ・デ・カピュシーヌ街、外務省の門前近くで、卒中に倒れ、宿舎にかつぎこまれる。
3月23日、午前2時、意識が回復しないまま死亡」 したそうです。享年、59歳でした。

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正面建物が、当時の外務省があったところです。当時と同じ建物かどうか確認できません。
その建物の左の太い通りが、ヌ―ヴ・デ・カピュシーヌ街 rue Neuve-des-Capucines です。現在、道を広げて、大通りになってからは、ブールヴァール・デ・カピュシーヌ Boulevard des Capucines に名前を変えています。オペラ座広場の前を走っている大きな通りです。
同じ建物の右側の通りは、カピュシーヌ街 rue Capucines です。
路上に30と描いてある通りは、カンボン街 rue Cambon です。

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写真中央の通りは、カピュシーヌ街。
スタンダールは、外務省(左側建物)の上司と面談後、建物から出て来たところで、倒れたことになります。
担ぎ込まれて、息をひきとった宿舎というのは、スタンダールがパリの定宿としていた、ナント・ホテルHotel de Nantes です。カピュシーヌ街に続いている、ダニエル・カサノヴァ街の22番地 (22, rue Danielle-Casanova) にあります。このことは、帰国後に知りました。そのために、残念ながら、訪問することができず、写真も撮っていません。

尚、この記事を書くにあたって、次の資料を参考にしました。
「赤と黒」小林正訳、新潮文庫
「パリの街角」佐藤昌著 三修社
Stendhal, Wikipedia in French as follows:

"Se sentant mieux, il s’engage le 21 mars 1842, à fournir des nouvelles à la Revue des Deux-Mondes, juste avant d’être foudroyé par une nouvelle attaque, le lendemain, rue Neuve-des-Capucines, alors qu'il sortait d'un rendez-vous avec son ministre de tutelle François Guizot. Il meurt à son domicile parisien, Hôtel de Nantes au 22, rue Danielle-Casanova, le 23 mars à deux heures du matin.
Sa dépouille est inhumée au cimetière de Montmartre à Paris en présence de trois amis malgré son vœu testamentaire d'être enterré à Andilly, où il avait séjourné83. Comme ultime provocation, il avait dès 1821 composé lui-même son épitaphe en italien Arrigo Beyle Milanese Scrisse Amò Visse (« Henri Beyle. Milanais. Il écrivit, Il aima, Il vécut84 ») que fait graver Romain Colomb, son cousin et ami d'enfance, exécuteur testamentaire85. " (From Wikipedia, Stendhal)

パリのピカソ美術館 

Musee Picasso of Paris, Paris 2017

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パリのリヴォリ通り Rue de Rivoli を、貸自転車を押しながら行く人たち。

久し振りに、パリの歴史博物館、カルナヴァレ博物館 Musee Carnavalet に行ってみようと思いました。1980年代初めに行って以来ですから、本当に久しぶりです。
リヴォリ通りを、東に向かって歩いて行くと、カルナヴァレ博物館の案内が出てきました。案内に従って、カルナヴァレ博物館に辿り着きました。門が閉まっています。悪い予感がしました。「2019年まで閉館」の掲示がありました!

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直ぐ近くに、ピカソ美術館 Musee Picasso があります。カルナヴァレ博物館の案内板と一緒に、ピカソ美術館の案内も出ていました。ここも、一度訪れたことがあります。代わりに、ここに、寄ってみることにしました。
日曜日だったせいか、入場は無料でした。観客も予想していたほど多くはありません。
ピカソの最初の奥さん、オルガ・ピカソの特別展をやっていました。

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二人の出会いは、1917年。今年は、ちょうど、100年記念に当たります。
二人の関係などの説明は、Wikipediaのほうが、分かりやすいので、そちらを引用します。

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「パブロ・ピカソ(Pablo Picasso 1881年 - 1973年)は、スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。」
(Wikipediaより。以下の引用文も同じです。
尚、掲載した絵のうち、「オルガの時代」特別展以外の一般公開展示のものも、一部入っています。
又、掲載の絵と、その下の説明文は直接関係がありません。)

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肘椅子に座るオルガの肖像。
「(ピカソは)ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯に、およそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。」

Olga_Khokhlova_dans_l’atelier_de_Montrouge,_Pablo_Picasso_(attribué_à),_or_Émile_Deletang,_spring_1918a
「1916年、ピカソは・・・ロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。
そこで、バレリーナで、貴族出身のオルガ・コクローヴァ(Olga Khokhlova)と知り合い、1918年に結婚した。」
(この写真もWikipediaより)

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「オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。」

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「二人のあいだには、息子パウロ(Paulo)が生まれた。ピカソは、はじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。」

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「1927年、ピカソは、17歳のマリー・テレーズ・ワルテル(:Marie-Thérèse Walter)と出会い、密会を始めた。
ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。
ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。
ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれた。」

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「新古典主義の時代(1918年~1925年)
妻オルガと息子パウロをモデルに、どっしりと量感のある母子像を描いた。
シュルレアリスムの時代(1925年~1936年)
化け物のようなイメージが多く描かれた時期で、妻オルガとの不和が反映していると言われる。」

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道化師に扮したパウロ。
「ピカソが亡くなったとき、長男パウロとパウロの長男(ピカソの孫にあたる)パブリートは、すでに死んでいた。
パウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、パブリートは自殺だった。・・・
ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロック(ピカソの二番目の正妻)は後に自殺している。

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素晴らしいデッサンと色彩と格式の、ピカソの世界に魅了されたひと時でした。

パリ散策:バルザック「ゴリオ爺さん」の下宿屋

Apartment of "Le Pere Goriot" by Balzac, Paris 2017

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パリ5区、トゥルヌフォール街。
バルザックの「ゴリオ爺さん」や「谷間の百合」を、高校生の頃から、何度か読み始めましたが、最後まで、続きません。どうも、バルザックとは性(しょう)に合わないようです。
日本出発前に、「ゴリオ爺さん」の舞台が、滞在先のムフタール街のすぐ近くにあることを知りました。「ゴリオ爺さん」を読んで行こうと思って、図書館から借りてきました。ところが、今回も、最後まで、読み切れません。

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ゴリオ爺さんの下宿屋、ヴォケール館のあった、トゥルヌフォール街。かつての、ヌ―ヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街。向こう正面は、St-Etienne du Mont教会の鐘楼のはずです。
ムフタール街から一歩裏通りに入れば、こんな閑静な住宅街になります。下宿屋の多い小路ということですが、どれがヴォケール館か特定されていないようです。
全部読んでいないので、偉そうなことは言えないのですが、街並みを見て歩くことにしました。

「ゴリオ爺さん」の話は、こうです。
「小説は、パリ、ヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ通り(現トゥルヌフォール通り、5区)にある下宿屋ヴォケール館の、延々とつづく叙述から始まる。この館の住人の中に、法学生ラスティニャックや、ヴォートランという名の謎めいたアジテーター、そして隠居した製麺業者のゴリオという老人がいた。この老人はいつも他の下宿人たちから嘲り笑われていたが、彼らは程なく、この老人が上流階級に嫁いだ二人の娘に金を工面するために破産してしまったことを知る。」(以下、引用文は、Wikipediaより)

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ムフタール通りの一本左側(西側)が、トゥルヌフォール通りです。

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ヴォケール館はいずこ?と探しましたが、全部小説を読んでもいないのに分かる筈もありません。
それでも、一軒一軒、こんな感じかな?あんな感じかな?と見て歩きました。

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「ゴリオ爺さん」の挿絵。Wikipediaより。
「『ゴリオ爺さん』(Le Père Goriot)は、19世紀フランスの文豪オノレ・ド・バルザックにより、1835年に発表された長編小説・・・。1819年のパリを舞台に、子煩悩な年寄りゴリオ、謎のお尋ね者ヴォートラン、うぶな学生ラスティニャックの3人の生き様の絡み合いを追う。」

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「大衆受けする作品で、しばしば映像化や舞台化がなされている。・・・この作品の影響で、「ラスティニャック」は、フランス語で、’出世のためならどんな手も使う野心家’をさす代名詞となった。」

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窓がたくさんあって、部屋数が多そう。
こんな静かなところのカフェに、いつ客が来るのだろうと心配になりましたが、来るときは来るのでしょう。

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こちらは、かなり、古びたアパルトマンで、空き室が多そうです。

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トゥルヌフォール街8番地。
何か説明板が掛かっていましたが、内容は忘れてしまいました。

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今度は、反対側から見たトゥルヌフォール街を。

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ゴリオ爺さんの居たヴォケール館のあるところは、こんなところだという感じだけは分かりました。